2/25(土)に『上智大学卒業40周年ルビー祝の集い』とやらに四ッ谷まで行って来ました。
そして、こんな証書を貰いました(笑)
私は変わり果てた同窓生達の誰一人も見分けることが出来なくて、大変な想いをしていたのに…変わり果てた人達からは私のことが分かる様で名前を呼ばれては、私から「誰?私の知っている人?」と聞いては思い出すという調子でした。
この1982年の卒業生の中で1番有名なのは、亡くなった山口美江です。
市ヶ谷キャンパスだったので学位は無いと思いますが、学生時代に健康診断の際に私の前に並んでいた彼女の小さな姿を思い出しました。
当時の私の手帳には『学生を勉学で殺すつもりか!』と書きなぐられています…それだけ大変な量をこなさないと卒業も出来ないという大学でしたね。
学科の半数は卒業が出来ずに消えていきましたから。
入学をするのは容易な学校でしたが、卒業をするのは大変な学科でした。
この大学の1番良いところは、他の学部の専門の単位も取得が出来ることですので、自分の学科だけでも大変な量の勉強をしなくてはならないのに、私は敢えて外国語学部の専門を取って自分の卒業単位を着実に増やし、3年間で卒論を除く卒論単位と必修単位を取得をして、アルバイトと食生活の充実と自分自身の趣味に残りの1年間を費しました。
卒論顧問の先生も敢えて1番難しいとされていた哲学辞典にも載っていた先生を選びました。
そのことが後々に役立つことになります。
就職活動もしなかったけれども、いろいろな企業から来てくれと懇願をされてはお断りに苦心をしたぐらいですから…。
今考えてみると…受験勉強もしたことも無いので、後にも先にも勉強をしたのはこの時期だけですね。
ところで、この証書みたいなものには、ラテン語のルックス・ベリタリスの頭文字が記されている鷲を両側から讃える様に鳳凰がいるのでよく見た途端に思わず爆笑をしました。
…それだけ特殊な大学でしたね。
毎日ドイツ語や英語で話し掛けられたり授業を受けたり文献講読をさせられたりと、勉学に集中をするのはこの3年間でもう真っ平御免です!
必修だった最後の単位の近代哲学をAで取得をしたのを確認した時には、学科の皆んなの前で嬉しくて思わず「やったー!もう(大学の授業には)来ないからねっ」と叫んでしまった程でしたから…。
」